1.米国の平均寿命、幼児死亡率が低い理由
世界の先進国10カ国(オーストラリア、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、ノルウエー、スウエーデン、イギリス、アメリカ、日本)の医療統計(2012年)によれば,アメリカの平均寿命、幼児死亡率はそれぞれ78.1歳、5.9%で10カ国中最低のレベルです。ちなみに日本は平均寿命(82.6歳)、幼児死亡率(2.1%)とどちらも10カ国中最高のレベルです。一方で、アメリカの一人当たりの年間医療費は7、432ドル (88万円)と突出しており(10カ国中1位)、日本は2、750ドル (32万円)で10カ国中で最低です。どうしてこのように米国の医療レベルが最低であるにも拘らず、医療費が突出しているのでしょうか? それは、米国の医療保険制度に問題があるからです。
米国の医療制度の実情
アメリカの医療は自由診療が基本です。公的医療保険制度として高齢者・障害者向けのメディケアと貧困者向けのメディケードがありますが、国民皆保険制度は採用していないため、一般の国民は民間の医療保険に加入しなければなりません。 国民各自が民間の保険会社と契約を行うので、多くの民間の保険会社は競ってそれぞれの『保険商品』をPRしています。しかしながら、その保険料は個人の支払い能力によって、何10種類もの範疇があり、 全ての医療が保険でカバーされる訳ではありません。例えば、低額(3-4万円/月)の保険料で契約すれば、外来診察は1年に3回までで、入院費は保険がきかず、 外来での小手術のみ保険でカバーされるなど、種々の制約があります。
そして担当医は個々の患者について、どんな検査や治療をするかを逐一、保険会社と交渉しなければなりません。もちろん、保険会社が担当医の考える治療や検査について『ノー』を突きつけるケースもあります。このように医療費の算定はもとより医療内容までが民間の保険会社の意向に依存しています。担当医は 若い保険会社の事務員相手に検査や薬の処方の許可を得なければならないのです。おまけに事務員は電話数件に1件は許可を却下するようにとのノルマを会社から与えられています。この結果、担当医は目の前の患者に思うような治療ができないケースも多く、そのプライドがつぶされたと感じる事も多いようです。
米国では患者のみならずその治療にあたる医師までをも不幸に貶めているのが民間医療保険なのです。一般的に企業はその利潤をあげる為に、いかに収入を上げ、支出を下げるかに躍起となります。資本主義社会では当然のことですが、この営利目的の市場原理が医療の現場にまで及んでいる事が問題なのです。民間の保険会社は、いかに収入(保険料)を上げ、支出(医療費)を下げるかを常に考えているのです。
6人に1人が医療保険に入れない現実
保険料は高額でその支払いは低所得者では困難です。医療費のかさむ慢性病患者は保険の更新を拒否されたりする弊害もあります。したがって、医療の恩恵を享受できない国民が多数存在し、アメリカの全国民の6人に1人(4千万人以上)が医療保険に入れない状態となっています。何らかの保険に入っていなければ、医療費は全額自己負担となります。この自己負担額が払えなければ、無保険者は最低限の必要な医療さえ受ける事はできません。これら無保険者に対して、『診療拒否』できるのがアメリカの医療保険制度なのです。
一方で、高額の民間医療保険(保険料が10万円以上/月)に入る事ができるお金持ちは、プライベートの病院を受診でき専門医にもゆっくり診察してもらえます。もちろん医療費は高額で、庶民が受診することは不可能です。恐るべき医療格差社会です。
医療費の支払いで、毎年200万人が破産
医療費支払いが原因で破産する人の数は全米で、毎年2百万人にも達しています。破産時の年収は2万4千ドル(290万円)との統計があります。医療費支払いが原因で破産する人は保険に加入していなかったからなのでしょうか?いいえ、そうではありません。破産した際の医療費の自己負担額は保険に加入していた人では1万3千ドル(160万円)、保険に加入していなっかた人では1万1千ドル(130万円)と大差がありません。 たとえ保険に加入していても、高額な医療費を払えずに米国人はすぐに破産してしまうのです。
米国の医療費は日本のそれと比べると極めて高額です。例えば 初診料は150ドルー300ドル(1万8千円−3万6千円)で、専門医を受診すると200ドルー500ドル(2万4千円—6万円)かかります。入院した場合は室料だけで1日千ドル以上(12万円以上)の請求を受けます。いくつかの例を挙げれば、急性虫垂炎で入院し手術後腹膜炎を併発したケース(8日入院)は7万ドル(840万円)、上腕骨骨折で入院手術(1日入院)は1万5千ドル(180万円)、貧血による入院(2日入院,保存療法)で2万ドル(240万円)、自然気胸のドレナージ処置(6日入院,手術無し)で8万ドル(960万円)などです。
米国ではホームドクターが必須?
アメリカでは、大部分のクリニックは予約制となっており、いきなりクリニックを訪れても診察してもらえません。民間の医療保険のシステムとして、個々の患者はPrimary care physician(ホームドクター)をもつことが、必須となっています。民間医療保険が中心のアメリカでは、日本のように自由に種々の医療機関にアクセスする事が出来ません。健康上の問題が生じた際には、このホームドクターを訪れます。そして、もし必要であれば、専門医に紹介されるシステムです。しかしながら、専門医への紹介率は50%以下にすべきという制約があり(医療費の抑制のため)、自分の診た患者の50%以上を専門医に紹介するとホームドクターの資格が剥奪されます。
2 私達のアメリカで受けた医療の経験
私たち家族がミシガンに住んでいた折、小学生の息子が頭痛と嘔吐が1週間程続いたため、 ホームドクターを受信しました。診断は偏頭痛とのことで、痛み止めが処方されました。親としては、脳の異常の有無が心配で、CTスキャンなどの精査を希望したのですが、拒否されました。既述したように、ホームドクターは安易に専門医に紹介してはいけないとの制約があったためです。
高校生になった息子が、手首を骨折し救急病院に運ばれた事があります。その報を受け、私が救急病院に着いた時は彼が運ばれてから2時間以上経過していました。診察室に横たわる彼の脇にレントゲン写真が置かれており、整復の必要性がありました。しかしながら、医者が現れて整復を開始したのは、その1時間後でした。私の友人の日本人医師が夜間に下痢と腹痛が出現し、あまりに症状が激しいので、ミシガン大学病院の救急を受診しました。3時間待っても医者が来てくれず、そのうちに腹痛が治まってきたので、そのまま帰宅したそうです。大部分のクリニックは予約制となっており、いきなりクリニックを訪れても診察してもらえません。無保険者の患者が受診できる唯一の医療機関が救急外来のため、救急外来はいつも混雑しているのです。
家内が毎夜、激しい頭痛を訴えた事がありました。3−4日、様子をみていたのですが、治まる傾向が無かったのでデユーク大学病院の救急に連れていきました。先ず、最初に現れたのが事務員でした。医療保険の種類と内容をしつこく30分以上にわたって質問され、その30分後にやっと看護師と話ができました。医者に会えたのは、さらに30分後でした。救急病院であっても、支払い能力が十分にあるということを確認できるまで治療を開始しないのです。
私の研究室の部下の中国人医師が里帰りをし、アメリカに帰ってきてから数日後、高熱が続きウイスコンシン医科大学の救急を受診しました。検査結果で血尿と血小板減少がみられ、症状が増悪するためICUに入院となりました。診断がつかないため、点滴などの対症療法で経過観察となりました。そして10日程で自然に治癒しました。後に分かった事ですがHanta virusの抗体価が高く、恐らく中国滞在中にネズミから感染したものと推察されました。この10日間のICU入院で1万5千ドル(1800万円)の医療費がかかったそうです。彼は幸いにも大学病院の職員で、保険にも入っていたので、この医療費は大学が面倒みてくれました。何の積極的な治療もなされず、単にICUで経過をみていただけなのに、この金額なのです。無保険の人が同様の病気に罹かっていたら、破産の危険性もあったでしょう。
3 マイケル ムーアの告発
このような悲惨なアメリカの医療を告発したドキュメンタリー映画 (シッコ) があります。マイケル ムーアが2007年に公開しています。この映画では、医療費が払えず病院にかかれないので、自分で傷口を縫う人が最初に登場します。続いて、仕事中に誤って指を二本切断した際、指を接合する手術費用が薬指は1万2千ドル(140万円)、中指なら6万ドル(720万円)と言われ中指は諦めざるを得なかった人、医療費があまりに高額で家を売りに出しこどもたちの家に世話になり家庭内で諍いが起こった老夫婦,「妻の腰痛の薬を買おうとしたら213ドル(2万5千円)と言われて絶句した。死ぬまで働くしかない」と嘆く79歳のお爺さん達のストーリーがコメデイータッチで紹介されています。複数骨折をしているのに入院治療費が払えずに病院を強制的に追い出され、車で貧民街まで運ばれて路上に放り捨てられる患者の後ろ姿をマイケル ムーアのカメラが哀しげに追いかけます。
一方で、彼の怒りは現行の医療制度にあぐらをかいている医師にも向かいます。貧困層向けの医療保険制度(メディケイド)において、治療費用が安く済めばボーナスをもらえるので、患者が検査を受けないかもしれないことを見計らって、わざと遠方の病院を検査のために指定する医師,医療費の支出を抑えるため命に関わる場合であっても十分な検査治療を認めないことに同意し、それによって多額の献金を得て昇進した医師などが、やり玉にあがっています。このようにアメリカの医療は、金権主義と市場原理に毒されています。その元凶の一つが、民間による医療保険の運営にあります。
4 オバマケアの偽善
オバマケアとはオバマ政権が推進する米国の包括的な医療保険制度改革です。国民に保険加入を義務付け、保険料の支払いが困難な中・低所得者には補助金を支給することにより、保険加入率を94パーセント程度まで高めるという目標で、2010年3月、オバマ大統領は選挙公約を実現する形で医療保険改革法を成立させました。低所得者に補助を行うことにより、国民の健康保険加入率を抜本的に向上させる内容でした。しかし、住民から保険料を強制的に徴収すること、2014年までに保険加入を義務づけないとメディケア給付を打ち切るとした点について各州が反発しています。26州が連邦政府を訴え、2011年1月31日にはフロリダ州では法律に対して違憲判決が出される結果となり、保険制度の実効性が疑問視されています。そして最近のレポートによれば、オバマケアは既存の民間保険会社や製薬企業の既得権益には踏み込まない内要となっており、その欺瞞性が問題となっています 。
5 TPPと医療
既述のごとくアメリカの一人当たりの年間医療費は88万円で、日本のそれは32万円です。特筆すべきはこの医療支出のうちで米国政府の負担割合は45%にすぎず,半分以上が個人負担となっています。ところが日本では医療支出のうち80%まで政府が負担しています。このように日本国民は、国民皆保険制度の恩恵に浴してきました。しかしながら、非正規雇用増加により、健康保険料が払えずに病院にかかれない若者が増加しています。近い将来70万人程度が無保険になる可能性が指摘されており、既に日本の医療制度・国民皆保険は瀕死の状態です。医療の面でも格差社会がアメリカと同様に進んでいるのが悲しい現実なのです。
加えてTPPの問題があります。マスコミはTPPをめぐる議論について農業vs製造業という単純な構図で繰り返し取り上げ、TPP参加は輸出産業へのメリットが大であると盛んにアピールしてきました。しかしながら、TPPは公汎な分野にわたる協定であり、その中には医療制度も含まれています。アメリカ主導のTPPに参加することで日本が世界に誇る国民皆保険制度が影響をうけるのではないかとの懸念が広がっています。
TPPに参加すると、アメリカの多くの民間医療保険会社に日本の医療システムへの門戸が開かれるでしょう。アメリカの民間医療保険会社は『医療システム』を経済的利潤を得るための『医療市場』と捉えています。日本の公的保険はすぐには廃止にはならないでしょうが、混合診療がみとめられるようになると縮小していくでしょう。自由診療で医療費が自己負担となると 公的保険に代わる民間の保険会社が必要になります。米国にはノウハウを持った民間の保険会社が多くありますから、そういった外資の保険会社が日本に入ってきます。それこそがまさにアメリカの狙いなのです。
米国企業が日本政府を訴えることができる「ISD条項」とは?
2011年11月に野田首相がTPP協議への参加を正式に表明しました。しかし 政府とマスコミはTPPに関する情報を意図的に国民に隠してきました。例えばTPPには24の重要な分野が存在することや、企業が政府を訴えるISD条項に関して一体どれだけの国民が知っているでしょうか?ISD条項とは、米国企業が海外での経済活動を保護するために適用されます。これにより米国の当該企業や投資家が損失、不利益を被った場合、日本の国内法を無視して世界銀行傘下の国際投資紛争解決センターに提訴することが可能となります。NAFTA (北米自由貿易協定)は国民に膨大な雇用と安価な農作物が食卓にのぼると謳われ,米国、カナダ、メキシコの間で締結されました。NAFTAにもISD条項が存在しますが、2010年の時点でカナダでは28件のISD条項に対する訴訟があり、この28件全てにおいて カナダは米国に敗訴し、賠償金を支払っています。メキシコの19件においても、メキシコが全て米国に敗訴しています。いったん、日本がTPPに参加すれば、米国の民間保険会社がこのISD条項により、『現行の日本の医療保険制度が米国の民間保険会社の自由な経済活動の妨げになっている』と国際投資紛争解決センターに提訴する可能性が懸念されます。その暁には、もはや日本政府は国内法では対処できず、全く次元の異なった国際法廷に舞台が移ります。そして、米国の民間保険会社を傘下に置く国際資本が、裁判の結果に大きな影響力を発揮するでしょう。カナダやメキシコでの敗訴が日本の行く末を暗示しています。
6 日本が向かうべき医療制度とは
TPP参加について日本医師会は「混合診療を全面解禁すれば、 自由価格の医療市場が拡大する。これは外資を含む民間資本に対し、魅力的かつ大きな市場が開放されることを意味する。公的医療保険の給付範囲が縮小され、社会保障が後退する。」という懸念を表明しています。 日本政府も例えTPPを導入しても、日本の国民皆保険制度は守ると公約しています。しかしながら、米国の民間保険会社がISD条項により、日本の医療保険制度を提訴した際の具体的な対応策を明示できていません。 TPPに含まれる混合診療と医療への株式会社参入の解禁は、日本の平等で良質な医療システムの息の根を止めることになるでしょう。その結末は、高額な医療費・保険費用と医療格差です。そしてこの改変で確実に利益を得るのは、外資の民間保険会社なのです。輸出産業が得る経済的利潤と、日本人の命を守る医療を同じTPPという同じ俎上(そじょう)で議論していいものかどうか、国民の価値観が問われています。
アメリカ政府は長期にわたり日本に対して規制緩和を始めとする、種々の要求を出し続けてきました。そのアメリカ政府を影で操っているのは、世界の90%の富を有するグローバル企業です。グローバル企業の世界市場を拡大しようとする業界の思惑は当然予測できます。『政府は我々の権利や暮らしを全力で守ろうとしているのか? この政府の健全な機能なくして、TPPに参加しようがしまいが、幾度となくやってくるアメリカからの外圧から国民を守ることは難しいでしょう。』 堤未果氏の卓見です。
宇沢弘文氏は『社会的共通資本』という概念を提唱しています。それは豊かな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味します。『社会的共通資本』とは一人一人の人間的尊厳を守リ、魂の自立を支え、 市民の基本的権利を最大限に維持するために不可欠な役割を果たすものであり、 決して市場原理に支配されてはならないし、官僚的基準によって管理されてはならないと説かれています。もちろんその中に、人間が人間らしい生活を営むための医療制度も含まれます。医療は貧富の差に関わり無く平等に提供されるべき『社会的共通資本』であり、市場原理に蹂躙される事なく、発展維持されるべきものです。そのための国民皆会保険制度は,改善される事はあっても、決して改悪される事があってはなりません。我が愛すべき日本の医療の現場では格差は,未来永劫に、存在しないと信じます。
まとめ
米国は国民皆保険制度を採用していないため、一般の国民は民間の医療保険に加入しなければなりません。米国の医療レベルは世界の先進国中、最低であるにも拘らず医療費だけが突出しています。その元凶が営利目的の民間医療保険にあります。日本がTPPに参加すれば、米国の民間医療保険会社のノウハウが日本に導入され、40兆円の日本の医療マーケットがその支配下に置かれ、日本の医療はアメリカ化するのです。日本の医療の現場を利潤目的の市場に曝すのか、それとも格差のない医療社会を堅持するのか、日本国民の価値観が問われているのです。
参考文献
堤未果. 沈みゆく大国アメリカ(2014年)
堤未果. 政府は必ず嘘をつく(2012年)
宇沢弘文. 社会的共通資本(2000年)