ハインリッヒの法則を知っていますか。1つの重大事故の裏には29の軽微な事故があり、その裏には300の異常が存在するという法則です。アメリカの保険会社の社員が1929年に出した論文に記したのが始まりで、現在も労働災害を抑制する基本的な考え方として普及しています。
多くの医療現場では、ハインリッヒの法則でいうところの300の異常を「インシデント」(またはヒヤリハット)と呼んで強く意識、共有することで、事故を回避しようという方針がとられています。
ここではインシデントの具体的な内容と、組織としてとるべき形と方向について紹介します。
1、インシデントは、すべての場所、段階で起こる
インシデントも、もとは産業界で生まれた言葉で、業界や業界内での立場を問わずに起こるものです。医療の現場では看護師のほか、医師、看護学生、施設管理者などにも起こります。
2、具体例から学ぶ
医療団体などが発表した資料から、インシデントの事例を3つ紹介します。
■看護学生のインシデント
看護学生の受け持ちであった患者が高熱を出したので、座薬の挿入をしたが、実習時間が終了したので(吸引されたかどうかの)確認をしないで帰宅した。しかしその後、患者に挿入した座薬が何らかの理由で(原因は記入なし)排泄され、体温が40度まで上昇して、再度解熱剤を投与されてしまった。 |
山形県立保健医療大学発行山形保険医療研究第8号から抜粋
■医師と看護師のインシデント
看護師からAさんの注射の処置を依頼され、看護師のそばにある注射薬を「あれだ」と思い込みました。薬剤には名前がなく、薬品名も書かれておらず、一瞬、変だと思いましたが、確認せず投与。実は、Aさんの注射薬は、患者さんの処置室の決められた場所に準備されていたのでした。 |
大阪大学医学部付属病院中央クオリティマネジメント部制作の資料から抜粋(一部手入れ)
■熟練看護師のインシデント
血圧コントロールのためのミリスロールの流量調節の指示がまさか自分の勤務まで及んでいるとは思わなかったし、今までの経験から一気にこれだけの量を減量するとは思わなかったため、しなかった。 |
金沢大学の論文から抜粋
3、インシデント発生の傾向
看護現場におけるインシデント発生の傾向を、公益財団法人医療機能評価機構の報告所から紹介します。報告書は、平成13年から5年間、勤務1年未満の看護師・准看護師を対象に行った調査をまとめたものです。
発生場面(分野)を多い方から並べると、「療養上の世話」「薬剤」「ドレーン・チューブ」の順番になります。「療養上の世話」は全体の60パーセントを占めています。
インシデントに関わった看護師と准看護師の比率は、看護師が493件に対して准看護師が6件で、99パーセントが看護師の事例でした。
インシデントの深刻度では、新人看護師が関連した事例のうち、「死亡」と「障害残存の可能性がある(高い)」につながるものは、ともに6.4パーセントで、職務経験1年以上の看護師の事例と大差ありませんでした。
出典:過去5年間における新人看護職の医療事故分析が公表されました 日本看護連盟
4、インシデントレポートとその活用
インシデントは、それを認知することで生まれます。自分で何らかのミスをしたり、何らかの異常を見たりした際に、「このままでは事故につながるぞ」と感じる感性がなければ生まれ得ません。インシデントを認知する感性を磨くためには、一定の教育が必要とされます。
教育方法のひとつが、インシデントレポートの作成です。インシデントレポートには、インシデントを共有する目的もありますが、本人のインシデントへの感性を磨く意味でも重要です。
■インシデントレポートの中身
インシデントレポートには、次の3つが求められます。①他人にきちんと伝わること、②改善につながる内容であること、③無駄がないこと(レポートを作成するのに必要以上の時間がかからないこと)。
これらを踏まえて、チェックマーク式や、項目を絞ったインシデントレポート用紙を用意し、それに記入する形をとっている施設も多いです。
次にあるのは、山梨県立大学看護学実習委員会のインシデントレポート用紙です。実習の際のインシデントを報告するためのものですが、参考になると思います。
詳しくは「様式1 インシデント・アクシデント 山梨県立大学」をご覧ください。
5、インシデントレポートの定着のために
インシデントは、起こした(目の当たりにした)本人だけしか気づかないことがほとんどです。また、本人の過失が要因になっていることが多いため、自分の胸だけにとどめておきたいという気持ちになるのも自然です。
そこで今度は、インシデントレポート作成を定着させるために、組織として取り組むべきことを記します。
■報告すべき事柄について何度も説明する
※当初は、「何でもいいから書くように」と指導する必要があります。
■レポートの目的を明確にし、懲罰や人事管理に用いない
※インシデントというある種のミスを報告することに抵抗があるのは当然です。そこで、インシデントレポートが、事故を未然に防ぐための「組織の宝」であることを浸透させる必要があります。「このインシデントレポートのおかげで、事故を回避できた」など、成果を発表する機会をつくることも効果的です。
■レポートの保管や取り扱いは厳重に
※レポートは内部文章で、第三者に見せるものではありません。「○○病院」などと題字がついた用紙には書かないのが原則です。金庫に保管しているケースも少なくありません。
6、インシデントレポートの活用
インシデントレポートは、提出するだけでも本人の経験値の向上につながります。それをさらに「組織の宝」として活用するには、しっかりとした分析が必要です。最後に、一般的に行われるインシデントの2つの分析方法を紹介します。
■シェル(SHELL)法
シェル法は航空機事故対策の分野で確立された分析方法です。シェル(SHELL)は、ソフト(Software)、ハード(Hardware)、エンバイロメント=環境(Environment)、2つのリブウェア=人(Liveware)の頭文字をつなげたものです。
それら一つ一つを切り口にしてインシデント発生の原因を分析しようというのがシェル法です。人(L)が2つあるのは、当事者と当事者以外の人を分けているためです。
インスリンの単位を間違えてしまったというインシデントの場合では次のような、切り口立てになります。
S(ソフト) | インスリン注射方法のルール、注射の手順マニュアルほか |
H(ハード) | 診療録、指示票が入れてあるファイルほか |
E(環境) | 勤務態勢、業務量ほか |
L(人) | 指示をした医師、薬を運ぶメッセンジャーほか |
L(当事者) | 経験年数、インスリンの知識ほか |
■4M4Eマトリックス法
4M4Eマトリックス法は、頭文字が「M」の4つの言葉と、頭文字が「E」の4つの言葉を切り口にする分析法です。
Mは人間(Man)、設備・機器・器具(Machin)、環境(Media)、管理(Management)。Eは教育・訓練(Education)、技術・工学(Engineering)、強化・徹底(Enforcement)、模範・事例(Example)です。
まず、4つのMについて分析します。「人間」なら、身体的状況、心理的状況、技量など、「設備・機器・器具」なら、強度、機能、配置、品質など、それぞれしっかりと柱立てして分析するのが大切です。その後、4つのEについて対策を立てるのが筋道です。
シェル法も4M4Eマトリックス法もあくまで手法にすぎません。それらが効果を発揮するかどうかは、分析に当たる当事者らの姿勢にゆだねられます。インシデントを察知する感性を磨く必要があるように、インシデントレポートの分析に当たっても、異常や危険に対する感性を磨いておく必要があります。
まとめ
さて、インシデントは、認知、報告、分析、共有の4段階を経て最大の意味を持ちます。最後の共有は、日々のカンファレンスでなされることが多いのですが、ただでさえ慌ただしい中で、なかなか満足いく形がとれないのが実状です。
また、認知と報告の場面と同様に、共有の場面でも、インシデントというある種の過失をテーマに話し合うことへの抵抗感が、スムーズな流れを妨げることがあるようです。
インシデントの完成のための一番のキーになるのは、スタッフ間の確かな信頼関係なのかもしれません。確かなシステムづくりと併せて、スタッフ間のコミュニケーションを深める方策を考えることも、事故防止のためにとても大切だといえそうです。